秋月さやか公式サイト:占星幻想館

秋月さやか公式サイト

冬至の日没の方位と環状列石遺構(田端遺跡)


 この記事を書いているのは、2021年12月の大雪節入り後で(しかし雪はまだ降ってなくて)、そして、もうしばらくすると冬至。
 冬至は、1年でいちばん昼が短く夜が長い日。つまり、日出(日の出)が遅く、日没(日の入)が早い。太陽は、東よりも南から昇り、西よりも南へと沈む。黄道が地上に出る部分が少なく、従って、太陽は高くは昇らず、南中時の太陽の高度も低い。
 
 冬至の日、東京での日出と日没の角度(方位角)は、日出が約120度、日没が約240度。が、方位角120度っていったいどっちの方角? 
 方位角には幾つかの種類がありますが、ここでは北を0度とし、東が90度、南が180度、西が270度となる左手系北基準の方位角を用いて記述しています。つまり地盤の上が北で下が南、向かって右が東で、左が西で、北を0度として時計回りに度数が増えていくというタイプ。東90度、南180度、西270度、360度で北へ戻る。ということは、120度は、東よりも30度南よりの東南東、240度は、西よりも30度南寄りの西南西です。
 
 ここで説明しておきますが、方位角には、幾つかの種類があります。すでに左手系北基準は説明しました。時計回り、右回りなのになんで左手系?と思いたくなるでしょうが、ここでその説明をはじめるわけにはいかないので、とにかく左手系は右回りになると覚えてください。(私は、親指と人差し指を開いて前に出した場合、手をまわしやすい巡り、と覚えていますが、覚え方は人それぞれで、わからなかったらとりあえず暗記。)
 右手系東基準というのもあり、これは東0、北90、西180、南270。上が北で下が南、右が東で左が西という配置は同じですが、度数が違い、さらには反時計回り、つまり左回りに度数が増えていきます。
 
 確認しますが、ここで用いるのは左手系北基準です。左手系北基準の120度とは、真東(90度)よりも30度南、東南東。360度を12区分し、十二支を配置すると、北から、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥となり、子0度、丑30度、寅60度、卯90度で、東は卯です。冬至の日の太陽は辰の方角(120度)ですから、卯(東)よりも30度南よりの東南東から昇るということ。
 そして、180度が南で午、210度が未、240度が申、270度が酉で西。冬至の太陽は、酉(西)よりも30度南に沈んでいく、つまり西南西です。
image画像
 さて、冬至の日、太陽は申(240度)に沈む。この240度の方角に山があるとすると、太陽はその山頂に沈んでいくように見えます。この時、太陽の光が、山頂にかかってダイヤモンドのように拡散して見える現象が起こり、これが富士山頂で起こるのが「ダイヤモンド富士」です。日没だけでなく、日出でも発生しますが、ようするに、山頂と、日の出日の入りの方角が一致した場合で、富士山のように山頂がよくわかる形の山で発生するものです。
 
 冬至の日没がダイヤモンド富士になる現象が見られる場所は、富士山頂から東北東の方角(すなわち、60度の方角)です。山中湖村でいえば、花の都公園内。言い換えれば、花の都公園から見て、富士山頂は240度の方角にあたります。(⇒240−180=60度) 富士山頂からみて、60度の方角(つまり東北東)の延長には、高尾山頂なども含まれているようです。
 冬至の頃の日没、といっても富士山頂に太陽が沈んでいくのは16時よりも前になるので、15時過ぎぐらいから、花の都公園にはダイヤモンド富士現象をカメラに写そうとする人たちが大勢集まってきます。太陽が富士山頂の真ん中に沈むのが眺められる地点は、かなりピンポイントなので、狭い地点に人がたくさん集まることになり、土日なんてもう大混雑。
 
 日没の方角と、富士山頂を結んだ先の地点のどこかにいるなら、そして、富士山を隠すような建物がなければ、いつでも、ダイヤモンド富士を眺めることは可能ですが、日没の方角は、刻々と移動していきますので、それにつれて、ダイヤモンド富士を見ることのできる場所も移動していくわけです。
 たとえば秋分には、太陽は真西へと沈むので、富士山の真東にいれば、日没時のダイヤモンド富士を眺めることができます。つまり、横浜のあたりから、富士山を眺めれば、日没時のダイヤモンド富士を見ることができるはずです。最近、話題になっていると思いますが。この時、富士山と横浜は、270度(西)と90度(東)との関係性になります。270度−90度=180度。富士山から東側90度に横浜があり、横浜から富士山は西270度にあるためで、横浜じゃなくても、富士山が270度方向にある場所なら、どこからでも日没ダイヤモンド富士を眺めることは可能です。

 もちろん、日出でもダイヤモンド富士現象は発生しますが、冬至の日出のダイヤモンド富士を眺めることができるのは富士山の西側です。すなわち富士山が120度方向(東南東)になる地点、富士山からは300度の方向となる地点においてですから(⇒120+180=300度)、富士ケ嶺の毛無山展望台とか、でしょうか。

image画像

 さて。日出の方角と、日没の方角の中間が南北ラインになります。冬至の例でいうなら、240度−120度=120度で÷2=60度、120度に60度+で180度、もしくは240度−60度で180度、いずれにしろ、180度は南。
 それは、夏至であろうと、冬至であろうと、春分秋分、それ以外であろうと、すべて、日出と日没の中間が南北ラインです。(興味のある人は計算してください。日没の度数から日出の度数をマイナスして2で割って、日出度数に足す、もしくは日没度数からマイナスすれば、180になりますので。)
 さらに、日出と日没の方角を結べば、これが東西ラインになります。太陽が東から出て西へ沈むのが、春分と秋分ですが、それ以外であっても、日出と日没を結べば、観測地点を通る東西ラインと、平行な東西ラインを引くことができます。
 
 冬至とは、太陽が高く昇らない(1年のうちで太陽の南中時の高度がもっとも低い)日で、南中時の影がもっとも長くなる、というように小学校で習ったかと思います。太陽が高く昇らないから。冬至を知るために、南中時の影の長さを土圭で測ったというような故事もあります。
 しかし、南中を知るためには、南がどちらなのかを知る必要がある。そんなの簡単、磁石があればすぐわかると思った人、磁石は、紀元3世紀ぐらいにようやく使われるようになった、という説が一般的です。伝説によれば、紀元前11世紀(つまりアバウトに考えて紀元前1000年頃に)、周公旦が磁石を用いていたという話があるのですが、では、それ以前は?
 つまり、方位磁石がなかった頃に、人はどうやって東西南北を知ったのだろうか、ということが疑問だったのですが、なるほど、日出の日没の方角を調べれば、東西南北はわかる。夏至だろうが冬至だろうが、それ以外の日だろうが、日出と日没を調べれば、東西南北がわかるって、すごくないですか? たしかに、方位は、地盤と太陽との関係性から発生するものですから。

image画像
image画像

 環状列石遺構とは、ストーンヘンジのように、石を丸く並べてある遺跡で、日本では縄文時代中期後半から後期にかけて(注・紀元前3000年から前1000年ぐらいまで)に作られたようです。
 環状列石遺構を使用して日出と日没の方角を調べたのではないか、という説がありますが、地面に立てた石柱や木などを用いて、日出と日没の位置を記録していけば、一年サイクルの太陽の動きを知ることができます。(もちろん東西南北を知ることも可能です。)
 
 田端遺跡は東京町田にある環状列石遺構です。
 縄文時代前期(紀元前3500年頃)には、人々がようやく集落をつくり始め、中期になって(紀元前3000年以降)、墓を含む大規模な環状集落(かんじょうしゅうらく)が造られるようになったということです。人が集まれば、そこには文化もあり、その1つに、季節の推移を知るという時の知恵もあったはずです。花が咲けば春で、葉が紅葉したら秋というようなアバウトな季節感覚ではなく、太陽の日出日没の位置の移動や、夜空に輝く星の並びから、1年を知るという暦法の基本のような知識は、縄文時代にもすでに確認されつつあったでしょう。
 日出の方角と日没の方角から、東西を知る。そして、その中間と、中央に立っている石柱を結べば、その先が南(もしくは北)・・・ということになり、縄文時代の人々は、環状列石遺構を用いて、どのように東西南北を知ったのか、という好奇心から、私は田端遺跡へと向かいました。
 
 が、結論からいうと、実際にそのように方位を知ることができたのかどうかについては、はっきりしません。東西ラインで並んでいるように見える石はあるようですが、そもそも、東西南北を知るために作ったものかどうかもわからない、と現地へ行って思いました。いや、東西南北にこだわるのは、私が現代人だからなのかもしれない、とも感じました。つまり、東西南北なんてどうでもいいのかもしれないのよ。
 
 まず、確かなことは、冬至の日に、田端遺跡から丹沢の(最高峰の)蛭が岳を眺めると、その山頂に太陽が沈んでいくという事実です。つまり、ダイヤモンド蛭が岳現象で冬至を知ったということになるわけです。
 冬至を知ることは重要です。もしかしたら、ダイヤモンド蛭が岳が、新たな年のはじまりだったかもしれないぐらいに重要な現象で、これさえわかれば、次のダイヤモンド蛭が岳まで指折り数えて365日ぐらいが1年であるとわかる、これはもう、立派な暦の構造です。
 環状列石遺構があるから東西南北を知っていたかどうかとか、春分秋分がわかっていたかどうかはわかりませんが、冬至を調べることができるなら、もうそれだけで立派な暦装置であったということだけは言えるでしょう。
 
 冬至の太陽は、この田端環状列石遺構から眺める丹沢の山々の最高峰である蛭が岳の山頂に沈んでいく、と書きましたが、この場所から眺める蛭が岳山頂と、富士山の山頂はわりと近いところにあります、というか、あるはず。つまり、富士山頂は丹沢の山並に隠れてよく見えないのですが、しかし、紀元前3000年とすると、富士山はドカドカと噴煙を上げていたでしょう。目の前に噴煙があがっていたら、それは誰だって注目するよね?
 
 というわけで、
その1 たまたまこのあたりに住みついた人々が、日出と日没を観測しているうちに、夏至や冬至という1年の巡りを知るようになる。
その2 冬至の日に太陽が沈むのは、あの噴煙を上げているあたりである、と人々は考え、冬至の日に、噴煙のあたりに太陽が沈んでいくように見える場所を、祭祀(観測)の場所として環状列石を作る。(実際に、田端遺跡の環状列石は、富士山の方角に向かって楕円形になっていることがわかっている。)
その3 冬至の日没は、富士山頂というよりも、正確には蛭が岳山頂に沈んでいくということがわかるが、環状列石の役割としては、その場所から蛭が岳を眺めて冬至を知るための場所の目印となればそれでOK。
 とまあ、このような成り行きではないかと、私は推測するのですが。
 
 私が当地を訪れた日は曇りで、どこが丹沢蛭が岳なのかよくわからず、見えるのは高圧鉄線の鉄塔だけでしたが、とにかく紀元前3000年頃に、ここに誰かが立ち、蛭が岳の山頂を眺めながら、冬至を観測していたことだけは事実なのでしょう。
 田端遺跡は、車で行くと、駐車場が近くにないので不便です。わりと遠いところに止めて歩かなきゃなりませんので、京王相模原線の南大沢か橋本に車を置いて電車に乗り換え、多摩境駅で降りて小山白山公園をめざして歩くことをおすすめします。駅から5分だそうです。次に行く時はそうしよう。ダイヤモンド蛭が岳も眺めてみたい。

占術研究家 秋月さやか

占術解説 > 冬至の日没の方位と環状列石遺構(田端遺跡)

この記事のURL
今日の月暦