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国家開始図 日本のはじまりはいつなのか

国家開始図 日本のはじまりはいつなのか

 すでに別記事で書きましたが、日本の始まりはいつなのか?という問題について考えてみます。
 
 改めて記載しますが、
 『日本書紀』では、大和国橿原宮で神武天皇が即位した時が日本のはじまりで、それは「辛酉年春正月庚辰朔」。つまり、辛酉の年の正月朔(新月)、日干支は庚辰。さて、それはいったい、いつなのか。
 平安時代の文章博士の三善清行は、昌泰4年(901年)が辛酉の年にあたることから改元を上書し、さらには、神武天皇即位は辛酉年であるとし、それが周の僖王3年、桓公が覇者になった年としました。それは、紀元前660年です。つまり紀元前660年の春正月、朔(新月)。  
 
 紀元前660年、雨水を含む朔望月の朔のホロスコープを作成してみます。
 iPhemeris(作成者:Clifford Ribaudo)で作成した紀元前660年正月朔、雨水を含む朔望月を正月とした場合の朔の瞬間のチャートです。紀元前660年2月11日ではなく2月18日になりますが、それはこれがユリウス暦ルール(注・Proleptic Julian Calendar)だから。グレゴリオ暦のルールで作成すれば、2月11日になりますので。 (注・prolepticとは制定前に遡って適用するという意味。Proleptic Calendarについての解説は、別記事で書きます。)
 
 中国由来の太陰太陽暦において暦月の正月とは、雨水を含む朔望月にあたります。従って雨水前の朔が正月朔となります。雨水とは太陽黄経330度。古い時代には定気法ではなく平気法ですので、現在の雨水よりも2日ほど後が雨水、つまり黄経333度ぐらいだったのだろうというような小さな注意点はありますが、雨水はアバウト魚イングレスと考えておけばOKです。というわけで、私は、紀元前660年の雨水前の朔を調べてから、ホロスコープの作成をしました。
   
 が、さすがに紀元前660年というのは無理があるかな〜、というのが個人的な印象です。まず、紀元前660年、中国は周の時代(春秋時代)です。日本に稲作が伝わったのは紀元前1000年頃(縄文時代の終わり)であると考えられるので、すでに日本に大陸から渡ってきた人たちはいたのかもしれませんが。
 しかし問題は、日付の記載です。日干支は古くから用いられており、殷の時代にはすでにあったとされます。殷は紀元前1700年〜紀元前1046年まで続きましたので、紀元前1000年頃には、すでに日干支は使用されていたと考えてよいでしょう。
 が、問題は年干支。中国戦国時代には、年は歳星の天空の位置(十二次)であらわされていました。歳星在大火(木星がアンタレスを含む十二次にあった年という意味)というように。たとえば『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)は、孔子先生の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の注釈書で、紀元前700年頃から約250年間、つまり紀元前450年ぐらいまでの魯国の歴史が書かれているのですが、そこには歳星の十二次が記されています。年干支は出てこない。
 それが十二辰(十二支)に対応し、歳星とは逆の方向に移動していく太歳が考え出されて、太歳紀年法になり、太歳在丑というようになっていき、歳星や太歳とは関係なく年干支が使用されるようになったのは、漢の時代になってから。
 
 つまり、紀元前660年に、まだ年干支がなかったことだけは確かです。(後世になってから、周の時代の出来事に年干支をおせっかいに追加記載した解説書が書かれたことはあるでしょうが、周の時代に年干支は用いられていません。日干支だけです。)
 
 では、と日干支を頼りに、紀元181年正月朔、紀元121年正月朔…と、雨水直前の朔の日をチェックしていきましたところ、121年2月3日の干支が庚辰。この日は朔の前々日で、旧暦12月29日。しかし当時の暦は平朔です。月の満ち欠けを平均29.5日で計算し、1カ月29日と30日が交互にやってくるというアバウトな構造でしたので、朔の前々日が朔になってしまうぐらいの誤差はありうるでしょう。というわけで、紀元121年の可能性はあり。
 さらに遡っていったら、紀元前180年の雨水直前に庚辰の日干支を発見。朔の前々日ぐらいですが、日干支は庚辰。なお、日干支は国立天文台の「日本の暦日データベース」でチェックしています。
 
 神武天皇は西からやってきた征服民族ですので、当然ですが、中国由来の暦を使用していたのでしょう。紀元121年であるなら中国では後漢の時代。すでに光武帝の時代に「漢委奴国王」の金印が、倭国の使節に与えられているということを考えるなら、紀元120年では遅すぎるような気がします。
 紀元前180年であるなら、中国では漢の高祖劉邦が世を去ったのちの時代、まだ高句麗は建国されていない時代、西からやってきた人々が日本東征を開始した可能性はもちろんあるでしょう。
 なお、春正月、つまり立春からの節月を正月とするのは、中国戦国時代に見られる暦の構造ですので、漢の武帝の太初暦以前からありました。というわけで、紀元前180年のほうが、可能性が高そう、などと個人的には考えてみたりするのですが、すべては推測の彼方にある想像のストーリーで、独立宣言のようにはっきりと日付がわかっているわけではありませんので、ホロスコープの作成は難しそうです。

秋月さやか





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