筆者エッセイ
時計仕掛けの小宇宙
時を計る道具、時計。それは、天空の動きを模したもの。
古来、太陽が地平線上に昇れば朝、頭上に輝けば昼、地平線に沈めば夕、そして夜空に巡る星々の方角。つまり、時とは天空の巡り。古くは太陽の影の方角と長さ、目印になる星の方角で時を計った。しかし、空が曇っていると時を計ることができない。
だから人間は時計を作った。といっても、初期の時計は、水時計、あるいは砂時計だったということである。一定量の水や砂によって、一定の時の長さを計るというもの。これは、時間を管理するための道具でしかなかった。水が流れ落ちてしまえば、砂がなくなってしまえば、終了。
しかし時は、無限に流れる。水時計の水がなくなっても、砂時計の砂がすべて落ち切っても、それでも世の中の時は流れつづける。宇宙を流れる無限の時である。しかも時は循環する。太陽は昇っては沈み、再び昇ってくる。その永遠の繰り返し。
もしかしたら、循環する太陽の巡りから、人間は歯車を思いついたのではないだろうか。回る歯車こそ、切れ目のない時の循環のモチーフであり、それは惑星の公転でもある。
時を知るには、(注・計るのではなく、知るためには)、機械仕掛けの宇宙でも作るしかないというわけだ。
アンチキティラ島の機械(地中海のアンチキティラ島の近くの沈没船から発見された機械で、おそらく、紀元前1世紀頃、ギリシャで天文学に詳しい人物の手によって作成されたと考えられる天文機械)を除けば、歯車式の時計が登場するのは、かなりたってから。8世紀の中国、そして11世紀のイスラムである。
有名なプラハの天文時計が作られたのは1400年代半ばのこと。それは、まさに機械仕掛けのアストロラーベのような構造である。
ゼンマイが16世紀には時計に使われるようになり、その動力は時計の内部に命を与えた。そして時計は自ら鼓動する宇宙になったのである。時を刻みながら回る歯車と文字盤。いわば、からくり宇宙。
中世、時計職人は魔術師のように考えられていた。実際、時計を扱うには、いろいろな知識や技術が必要で、親方のところに弟子入りして長年修行や勉学をしなくては、時計職人にはなれなかったからである。
知人に、時計職人をしていた人がいた。母の友人であるヨシコさんの夫。その人は、満州で生まれ育ち、子供の頃に、時計店に奉公に出されたそうである。華やかなりし頃の満州。それこそ、店には贅を尽くした高価な時計がたくさん並べられていたに違いない。
「うん、あの頃がいちばんいい時代だったんだろうね」、当時の満州は、国際都市のような賑わいで、中国語、日本語だけでなく、ロシア語もフランス語も飛び交っていたと、その人は言っていた。「子供だったから、会話なんてわからないんだけどね」。しかし、戦争があり、満州を引きあげることになり、そして日本に戻って終戦後、結核の治療を終えてしばらくしてから、その人は時計店を開業した。
地方都市の小さな時計店。通りに面した明るい店の中、たくさんの時計が秒を刻む音。その店の片隅で、片目に拡大鏡を当てて時計の部品を調整していたその人の姿を、私は、時折り懐かしく思い出す。
おじさんは腕の良い時計職人だった。当時、上野に「時計研究所」という古いレンガ作りの建物があり、そこで時計の技術を学ぶ講習会が開かれていた。おじさんは月1で上京し、時計の技術を学んでいた。講習会の費用はかなり高かったようである。が、「どんな時計でも直せる職人でいたい」という気概があったようで、「学ぶことはたくさんある」と、張り切って出かけていくのだと、ヨシコさんは言っていた。
実際、おじさんの店には、他の店では直すことができない時計が持ち込まれてきていた。たとえば、地元の老舗の時計店に持ち込まれるアンティークの高級時計。「うちでは直せないとは言えないから、どうだろう、内緒で受けてもらえないだろうか」と頼まれるのだそうだ。「手間ばっかりかかって、それほどお金にはならないんだけど」とヨシコさんは諦め顔だった。おじさんは、年代物の希少な時計を見たい好奇心に逆らえず、手間のわりにはお金にならない仕事を受けてしまうんだそうである。
「あのね、珍しい時計、見せてあげるよ」と、たまにおじさんが店から手招きしてくれる時があった。店の作業場で大切そうに見せてくれる時計。「これはオメガのナントカカントカ、何年頃の作、この部品がもうないから・・・」というような説明してくれるのだが、幼児の私には、当然チンプンカンプン。それに、ゆっくり見ていることなんてできない。「高い物なんでしょ、もし壊したら弁償できないから、もう仕舞っといてください。ほら、こっちへ来なさい。仕事のお邪魔だから!」と私の母は、私を店から居間へとさっさと引き戻そうとするし。
ムーンフェイズ機能がついているアンティークの腕時計を見せてもらった記憶もある。もう私は小学生になっていたかと思うが、首を傾げる私に、おじさんはムーンフェイズ機能の説明をしてくれた。「一種のからくり時計なんだよね。」と。
手先が器用だったおじさんは、紙を切り抜いて立体的な造形物を作ってくれることもあった。たとえばサイコロとか、三角錐とか、正十二面体みたいな造形物。そのへんの広告チラシの裏にちゃっちゃと定規をあてて設計図を引く。それを切り抜いて、指定どおりに折って組み立てると・・・あら不思議、立体が出現。二次元の平面が三次元の立体になるのだ。「クリスマスツリーの飾りにどうかな。金平糖みたいになると思うんだよね。」と、正二十面体だったかをアレンジしたような設計図を貰ったことがある。
多面体といえばプラトン。そしてケプラー。ケプラーの宇宙構造モデルは、天文学者のアイデアというより、魔術デザイナーの作品のような印象を漂わせている。
クリスマスがやってくると、私は胡桃割り人形の話を思い出す。それは胡桃割り人形の物語が、クリスマスイブの場面から始まるから。そして胡桃割り人形といえば、時計職人のドロッセルマイヤーおじさん。そして時計といえば・・・。
クリスマスのきらきらした星飾りを眺めるたび、私は、おじさんが描いてくれた多面体の設計図を思い出す。時計と多面体。そしてケプラーの宇宙構造。おじさんが店の作業場で覗いていたもの、あれはまさに時計仕掛けの小宇宙だったのだろう。
参考文献:
「図説占星術事典」 種村季弘 同学社
「あんてぃーく 特集古時計の世界」 読売新聞社
画像:素材事典
古来、太陽が地平線上に昇れば朝、頭上に輝けば昼、地平線に沈めば夕、そして夜空に巡る星々の方角。つまり、時とは天空の巡り。古くは太陽の影の方角と長さ、目印になる星の方角で時を計った。しかし、空が曇っていると時を計ることができない。
だから人間は時計を作った。といっても、初期の時計は、水時計、あるいは砂時計だったということである。一定量の水や砂によって、一定の時の長さを計るというもの。これは、時間を管理するための道具でしかなかった。水が流れ落ちてしまえば、砂がなくなってしまえば、終了。
しかし時は、無限に流れる。水時計の水がなくなっても、砂時計の砂がすべて落ち切っても、それでも世の中の時は流れつづける。宇宙を流れる無限の時である。しかも時は循環する。太陽は昇っては沈み、再び昇ってくる。その永遠の繰り返し。
もしかしたら、循環する太陽の巡りから、人間は歯車を思いついたのではないだろうか。回る歯車こそ、切れ目のない時の循環のモチーフであり、それは惑星の公転でもある。
時を知るには、(注・計るのではなく、知るためには)、機械仕掛けの宇宙でも作るしかないというわけだ。
アンチキティラ島の機械(地中海のアンチキティラ島の近くの沈没船から発見された機械で、おそらく、紀元前1世紀頃、ギリシャで天文学に詳しい人物の手によって作成されたと考えられる天文機械)を除けば、歯車式の時計が登場するのは、かなりたってから。8世紀の中国、そして11世紀のイスラムである。
有名なプラハの天文時計が作られたのは1400年代半ばのこと。それは、まさに機械仕掛けのアストロラーベのような構造である。
ゼンマイが16世紀には時計に使われるようになり、その動力は時計の内部に命を与えた。そして時計は自ら鼓動する宇宙になったのである。時を刻みながら回る歯車と文字盤。いわば、からくり宇宙。
中世、時計職人は魔術師のように考えられていた。実際、時計を扱うには、いろいろな知識や技術が必要で、親方のところに弟子入りして長年修行や勉学をしなくては、時計職人にはなれなかったからである。
知人に、時計職人をしていた人がいた。母の友人であるヨシコさんの夫。その人は、満州で生まれ育ち、子供の頃に、時計店に奉公に出されたそうである。華やかなりし頃の満州。それこそ、店には贅を尽くした高価な時計がたくさん並べられていたに違いない。
「うん、あの頃がいちばんいい時代だったんだろうね」、当時の満州は、国際都市のような賑わいで、中国語、日本語だけでなく、ロシア語もフランス語も飛び交っていたと、その人は言っていた。「子供だったから、会話なんてわからないんだけどね」。しかし、戦争があり、満州を引きあげることになり、そして日本に戻って終戦後、結核の治療を終えてしばらくしてから、その人は時計店を開業した。
地方都市の小さな時計店。通りに面した明るい店の中、たくさんの時計が秒を刻む音。その店の片隅で、片目に拡大鏡を当てて時計の部品を調整していたその人の姿を、私は、時折り懐かしく思い出す。
おじさんは腕の良い時計職人だった。当時、上野に「時計研究所」という古いレンガ作りの建物があり、そこで時計の技術を学ぶ講習会が開かれていた。おじさんは月1で上京し、時計の技術を学んでいた。講習会の費用はかなり高かったようである。が、「どんな時計でも直せる職人でいたい」という気概があったようで、「学ぶことはたくさんある」と、張り切って出かけていくのだと、ヨシコさんは言っていた。
実際、おじさんの店には、他の店では直すことができない時計が持ち込まれてきていた。たとえば、地元の老舗の時計店に持ち込まれるアンティークの高級時計。「うちでは直せないとは言えないから、どうだろう、内緒で受けてもらえないだろうか」と頼まれるのだそうだ。「手間ばっかりかかって、それほどお金にはならないんだけど」とヨシコさんは諦め顔だった。おじさんは、年代物の希少な時計を見たい好奇心に逆らえず、手間のわりにはお金にならない仕事を受けてしまうんだそうである。
「あのね、珍しい時計、見せてあげるよ」と、たまにおじさんが店から手招きしてくれる時があった。店の作業場で大切そうに見せてくれる時計。「これはオメガのナントカカントカ、何年頃の作、この部品がもうないから・・・」というような説明してくれるのだが、幼児の私には、当然チンプンカンプン。それに、ゆっくり見ていることなんてできない。「高い物なんでしょ、もし壊したら弁償できないから、もう仕舞っといてください。ほら、こっちへ来なさい。仕事のお邪魔だから!」と私の母は、私を店から居間へとさっさと引き戻そうとするし。
ムーンフェイズ機能がついているアンティークの腕時計を見せてもらった記憶もある。もう私は小学生になっていたかと思うが、首を傾げる私に、おじさんはムーンフェイズ機能の説明をしてくれた。「一種のからくり時計なんだよね。」と。
手先が器用だったおじさんは、紙を切り抜いて立体的な造形物を作ってくれることもあった。たとえばサイコロとか、三角錐とか、正十二面体みたいな造形物。そのへんの広告チラシの裏にちゃっちゃと定規をあてて設計図を引く。それを切り抜いて、指定どおりに折って組み立てると・・・あら不思議、立体が出現。二次元の平面が三次元の立体になるのだ。「クリスマスツリーの飾りにどうかな。金平糖みたいになると思うんだよね。」と、正二十面体だったかをアレンジしたような設計図を貰ったことがある。
多面体といえばプラトン。そしてケプラー。ケプラーの宇宙構造モデルは、天文学者のアイデアというより、魔術デザイナーの作品のような印象を漂わせている。
クリスマスがやってくると、私は胡桃割り人形の話を思い出す。それは胡桃割り人形の物語が、クリスマスイブの場面から始まるから。そして胡桃割り人形といえば、時計職人のドロッセルマイヤーおじさん。そして時計といえば・・・。
クリスマスのきらきらした星飾りを眺めるたび、私は、おじさんが描いてくれた多面体の設計図を思い出す。時計と多面体。そしてケプラーの宇宙構造。おじさんが店の作業場で覗いていたもの、あれはまさに時計仕掛けの小宇宙だったのだろう。
秋月さやか
参考文献:
「図説占星術事典」 種村季弘 同学社
「あんてぃーく 特集古時計の世界」 読売新聞社
画像:素材事典
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