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春眠暁を覚えず、夢を想う

 「春は眠い、春眠暁を覚えずって言うでしょう?」と、よく言われる言葉ですが・・・。
 この原典は「春暁」という唐詩(五言絶句)です。

 春眠不覚暁 処処聞啼鳥
 夜来風雨声 花落知多少

 春の眠りは、夜明けに気づかないほど
 (目覚めれば)あちこちから鳥の声
 昨夜は風雨の音が聞こえていたのに
 花は、どのぐらい散っているのだろう
 

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 昨夜寝入った頃には雨風の音でなかなか眠れなかったのに、いつの間にかぐっすりと眠り、夜がすっかり明けてから目覚めた様子を詠んでいる詩。
 眠れないままに聞いていた風雨の音と、寝覚めに聞く鳥の声の対比。眠りをテーマにした詩という意味でも、味わい深いものがあります。「春暁」というタイトルがついているのに、暁(夜明け)に気づかずに眠っていた、という、ある意味、ちょっと矛盾したタイトルです。
 役人勤めしていれば、夜が明けぬうちに起きて仕事に出かけなくてはなりません。しかし、勤めがなければ、そんなに朝早くに起きる必要はなく、夜が明けてから、鳥の声で目を覚ますのです。花はどのぐらい散ったのだろう、と庭の様子を心配しながらまどろむ朝。
 役人になれば、のんびり寝てなどいられるものではない。この詩には、「そんな辛い仕事をしているわけではない自分」を、自嘲している哀しさがあります。
 
 さて、作者、孟浩然(689〜740)は、自然詩人として知られます。襄陽の人で、家は貧しく、都に出て出世を考えます。が、試験には受からず、世渡りも下手。せっかくチャンスがあったにも関わらず、玄宗皇帝の不興を買って都を去ります。後に、都を左遷された識者の元に仕えることにはなりますが、いずれにしろ、出世には縁のない人だったようです。
 もっとも、科挙に受かって宮仕えしても、不安定な政変の中で左遷されることも多く、気は抜けません。となると、昨夜の雨風というのは、騒がしく物騒な世の中を暗喩しているのではないか、とさえ思えてきます。昨夜の雨風で、花はどのぐらい散っているのだろうか。しかし雨風が去れば、鳥はまた明るく、何事も無かったかのように鳴き始める。実際の春を詠みながら、そこに人の世を重ね合わせているのかも知れません。
 
 会社でのストレスが原因で不眠症になり、会社を辞めたとたんにぐっすりと眠れるようになった、なんていう知人の話も耳にします。暁を覚えず鳥の声で目覚める朝は、そういう人にとっては心からの安らぎでしょう。
 孟浩然の友人の王維(役人)も、似たようなテーマで春の朝寝を詠んでいますが、こちらの詩には哀しさはなく、のんびりした雰囲気が漂います。昨夜のしとしと雨に散った花びらは、みずみずしく美しく、柳は緑で、春の息吹に溢れています。でも、それを見ずにまだ眠っているのんきな山客(隠者)。いまだに夢の続きの中にいるのかも知れません。まさに、春眠の幸せを思わせる詩です。
 
 桃紅復含宿雨 柳緑更帯春煙
 花落家童未掃 鶯啼山客猶眠
 
 かつて唐の詩人たちは、隠居に憧れました。それは、役人として出世する生活に安住がなかったからでしょう。王維のように、無難な半官半隠の暮らしを楽しむ者があれば、張翰のように宮仕えをやめて田舎に帰ってしまう者もいました。前者は、現代でいえば週末だけ別荘で趣味を楽しむ暮らし、後者は会社を早期退職しての田舎暮らしみたいなもの。
 
 私が住んでいる別荘地(という名称の田舎)にも、いろいろな方々がいます。脱サラでペンションや喫茶店を経営したり、自給自足に憧れて畑を耕したり、週末だけの趣味の別荘暮らしなど・・・。
 ご近所なので、顔見知りになれば声をかけあい、一緒にお茶を飲んだりすることもあります。みなさん、別荘地で暮らし始めた当初は、口を揃えて「昔の生活が夢みたい」と言います。鳥の声で目覚める朝は、このうえもない安らぎ。が、しばらくすると「田舎はつまらない、都会に戻りたい」と言い出すこともあったりして・・・。そうなると、鳥の声でめざめる朝が哀しくなってくるようです。
 というわけで、別荘地の住民の顔ぶれは、案外、短期間で変わっていきます。我が家が、古株になりつつある今日この頃です。私は、それなりにここの暮らしが気に入っていますけどね。時々、仕事の打ち合わせで都内に出かけ、不夜城のような高層ビルの明かりを眺めながら、いったい何が夢で、何が現実なのか、よくわからないような気持ちになることがあります。

秋月さやか


参考文献:「新唐詩選」 吉川幸次郎 三好達治 岩波書店
写真:素材辞典

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